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2015/06/13

常に、屈託のタネは一つかと

飼い犬が亡くなって、約2ヵ月。

月日とともに、犬の存在は薄れているけど、いないんだ、死んだんだ、という事実が重くなっている。

夫が亡くなって6年経ち、やっと、その重さから解放されて、これから、夫がこよなく愛していたワンコとのんびり時を送ろうかと思っていた矢先に、その犬がいなくなったわけである。

夫は、犬を飼うにあたって、ある種の役目を犬に与えていて、それは私と夫の関係が、一本のレールになるようにと飼ったのだった。

でも、その目論見は見事に外れて、犬は私が一手に面倒をみることになってしまった。
つまり、私と夫は、一本のレールではなく、二本の平行したレールを歩くことになったというわけである。

私は、この結果について、やっぱり、悲しく思ったし、そういう中で、親犬からの躾けらしきものを一切受けていない、ただ、生きているだけの子犬の面倒をみることには、猛烈な負担を感じた。

心の中で泣きながら、しかし犬には罪はないからという思いだけで、必死で面倒をみた。

最初の1年が大事だから、根気よく、愛情をもって、自分を取り巻くやっさもっさに耐えて、自分でいうのもなんだが、よく、頑張った。


そんな風にして、苦楽をともにした犬だもの、失う意味もそれ相当なものがあるのである。


毎朝、目が覚めると、あ、犬はいないんだ・・・と落ち込むことが続いていた。

ただ、今朝は、落ち込むことは落ち込んだけど、その後が、少し、違っていた。

それは、あっ、人間って、生きて行く中で、一つくらいは屈託のタネがあるのが普通かもしれない、と思ったのである。

やっと、夫の死が遠くになって、気持も軽くなり、これで、犬が元気なら、私には万々歳な人生がしばらく続いたのだが。

そうは問屋が卸さなかった。


てことは?

私が夫の死をまだ引きずっていれば、犬は元気だった?

いやいや、夫の死は、時が解決して行ったことだから、悩もうにも、そういう気持が失せたのだもの、しかたがない。


屈託は、小さなことなら、次々と起きるけど、それらは、一番大きな屈託に吸収されていくことが多い。
そして、一番気になる屈託が心に残るような気がする。


つまり、屈託は、あるとすれば常に一つ。


心配性の人が突き詰めると、生きていることそのものが屈託のタネ、ということもいるかもしれないが、
逆に、楽天的だと、全く、屈託がないということもある。

楽天的はいいよ、いい!!

中々、そうしようと思ってできるものではないが。



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2015/06/10

キミは誰?

ayame1.jpg
ひょこっと咲いたアヤメみたいな花^^

ミニアヤメでしょう。

かなり小さいですから。

去年、庭を整理した人から貰った中に含まれていたようです。

このところ、こちらは雨ばっかり。

北海道は、梅雨はないんだけど、ヨサコイソーラン祭りになるとお天気が崩れます;
2015/06/08

中和剤?

前の記事で書いたおばあさんから電話で、家庭菜園で作っている野菜を取りに来ないかと言って来た。

私は、午前中、熱が37度5分あって、しんどかったのだが、薬を飲むと楽になっていたので、お野菜をもらいに行くくらいなら大丈夫、と行くことにした。

普通は、行けば、娘さんが庭で待っていて、お野菜を渡してくれる。

なのに、今日は、行くと、娘さんが畑の中を歩き回っていて、私が声をかけると、家の中に入るようにと言うのだった。

お昼が近かったから、すぐに帰ることにしていたけれど、おばあさんにも挨拶をしなきゃならないから、取り敢えず、玄関へと回った。

そしたら、おばあさんが、家に入れと言い張る。

まあ、10分だけ、お邪魔しようと入ると、お昼は食べたかと聞く。

これから帰って食べると応えると、そうめんでも食べて行けと言うから、それは固辞したのだが、そこへ、娘さんも畑から戻って来て、食べて行くように、と盛んに言うのだった。

私にくれるお野菜は、リビングの新聞の上に、鎮座ましましていて、最初っから、私を家の中に入れるつもりだった風がうかがえた。

これは、母と娘の二人で、煮詰まっていたのだろう、と思った。

だから、私に薄め役,、ガス抜きともいうが、をやってほしいのだろう、と。

もう、そうなったら、腹をくくって、お役目をこなすしかない。

ただ、お昼のそうめんを作ったり、お茶を出したりするのは娘さんだから、娘さんに手間をかけさせる。

これは、日ごろの介護でじわっとくたびれている人には、重いことでもあるのだ。

私は、母娘の話相手をしながら、身の細る思いでもあった。


そんな私の気持を、おばあさんは察することもなく、

いみじくも仰った。

「誰かがいてくれたら、雰囲気が和らぐからいいんだよ」

と。

私は、もう、へえへえ、中和剤でも薄め役でも、何でもしますがな、と覚悟を決めた。

それから、そうめんをいただいて、テレビの2時間ドラマを観て、帰ってきた。

帰るとき、おばあさんは私の顔をじっと見た。

ありがとう、と言いたかったのか、どうなのかは分からないけど、

手をしっかり握って、帰って来た。


私がしてあげられることは、これから、まだまだたくさんある。
というより、これからが勝負だと思う。

先に経験した者として、できることを全てしてあげようとは思う。

2015/06/07

人嫌い

ワタクシ、誰とでもすぐに話せるのですが、

でも、心を許しているわけでも、相手を受け入れているわけでもありません。



我が家に来た客が無断でワタシのPCのマウスに触ったりするのはもってのほか。

リビングとその隣の部屋の戸が開いているからといって、勝手に隣の部屋に入るのもNG!

新聞がそこにあるからといって、開くな!

部屋の中を見回して、興味のある物を見つけた途端、飛んで行くな!!


これは、長年付き合っている人でも嫌です。

まして、昨日今日の、しかも、仕事で打ち合わせに来たアンタがするなんて、とんでもない行動ですよ。

二度と、アンタの会社には仕事を頼まない(-`ェ´-怒)


2015/06/06

話を聞いてやるだけでいい

知り合いのおばあさん、腰を悪くした結果、歩けなくなり、家の中にこもらざるをえなくなった。

ちょっと用事があったので行ってみれば、一緒に暮らしている娘さんと思わしくない状況。

おばあさん、耳も遠くなっているけど、神経質と我儘で、補聴器を使わないから、話がスムースに通じないし。


私は、介護10年の経験があるから、この状況は手に取るように分かる。

娘さんにしてみれば、今まで自分を支えてくれていた母親が弱って行くのを認めたくない気持もある。

私は、母親の方、おばあさんを半日くらいあずかってやることにした。

こういうときは、双方を離すのがいい。


そして、おばあさんの方をウチに連れて来て、言いたい事を言わせてみた。

逆らわずに、そうだねそうだね、と同調して。


途中、お昼を作ろうと、私が用意を始めたら、

おばあさん、私に迷惑をかけるから帰ると言い出した。

ちょっと待って、もう少しでできるから、と言っても、全く聞いてくれない。

帰るったら帰る、と子供のように言い張って、

顔を見れば、混乱している風だった。

勝気な人だから、他人の手間をかけさせるのは嫌なのだ。

なので、お昼の用意は止めにして、

分かったから、もう、いいよ、と背中をさすって落ち着かせ、

また、話を聞く事にした。

そしたら、今までの混乱はうそのように収まり、話を始めた。

お腹が空いていない風だったし、

お菓子は出してあったので、取り敢えず大丈夫だと思った。

なにしろ、娘さんとのやっさもっさで、お腹にはいっぱいのもやもやがあるし(^^ゞ

結局、夕方まで私のところで話したいだけ話して、帰って行った。

帰るときに、娘があんたみたいに、静かに話してくれたらいいけど、あの娘は、甲高い声で、ワーワー言うから、聞き取れないと言ったので、

いやいや、娘さんが一番、お母さんのことを気にかけているんだからね、私は他人だから、冷静に聞いてあげられるだけだよ、

とは言っておいた。


そして、帰ってから電話が来て、今までよりも歩けるようになったし、なんか、すっきりしたと言って来た。

薬の副作用みたいなのがあって、医者から出された薬が不安だとも言っていたけど、その副作用みたいな症状も、翌日にはないような気がすると報告してきた。


要するに、利害関係のない人が話を聞いてやればいいのだ。

年を取って、具合が悪くなり、死が近づいて来るのを感じるようになると、心が塞ぐのは当たり前。

そんなとき、どうしてほしい?

四の五の言わずに、話を聞いてほしいんじゃないかい?

親の介護をしている友達が言うのは、話を聞いてやってくれるだけでいいから、そういうことをやってくれる人はいないだろうか、ということである。

でも、介護システムの中にはそういうのはない。

知り合いがやってやればいいのだが、聞いたことの他言無用ができるかどうかに難しいところがある。

家族にも、話してはいけない。

言ったって、どうになるものでもないことだらけの話なのだから、聞いてやる人は、自分の胸にしまって、鍵をかける。

それだけのことなのだが、これが中々なのも事実である。